21世紀に求められる新しいマンション管理の形

区分所有法が生まれた社会環境
区分所有法が制定されたのは1962年。その基本は区分所有者全員が団体を構成し、共用部分の管理を行うという「所有者自治」の精神による。しかし、多数の区分所有者全員が共同で管理を行うことは困難であり、中には管理に無関心な区分所有者もいることから、団体の中で1人の管理者を定めて、その管理者に管理を行わせることを可能にした。いわゆる「管理者型」の管理形態である。

その一方で、区分所有法は管理組合法人を設立することも可能にした。管理組合法人では区分所有者が理事と監事を選出し、理事が管理を行い、監事が区分所有者を代表して財産状況を監査し、その業務執行を監視するという方法を取っている。いわゆる「理事会型」の管理形態である。そして1982年に制定された標準管理規約は、この「理事会型」の考え方を採用している。その後は分譲マンション販売会社の多くがこの標準管理規約を原始規約として採用したため、世の中の多くのマンションがこの「理事会型」の規約を持つことになった。

これらの区分所有法や標準管理規約が制定されたのは、まさに日本の高度成長期に当たる。アルビン・トフラーの名著「第三の波」の言葉を借りれば、日本経済が「第一の波」の農業社会から「第二の波」の産業社会への脱皮を図る中で、それまでの農業社会の担い手だった地方の労働者が、都市の工場や事務所で働くようになり、集団就職に象徴されるような地方から都市への人口移動が劇的に進んでいた時代である。
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この都市に流入した労働者の旺盛な住宅需要と、持ち家を奨励する政府の住宅政策によって現れた、新たな住居形態が分譲マンションである。農業社会では家が経済活動の中心であり、家の近くの田畑に農作業に出かけて、農作物を作るのが仕事だった。農作物の多くは自分の家で消費するものであり、残りの農作物を売ることによって得られる収入で生活を営んでいた。ここでは家が生活や経済活動の中心であり、家父長制の下で年長の男性が絶対的な権限を有していた。他の者はその絶対的リーダーに従うことで生活基盤が保証されていた。また、田植えや刈入れ時には多くの人手を要するため、地域の中で事業共同体が自然に生まれた。家と同等に生活や経済活動の中心が地域共同体にあった。

この地域共同体の運営もやはり年長の男性による絶対的リーダーの責任と権限によって行われていた。他の家はその絶対的リーダーに従うことで生活基盤が保証されており、それに反する者は共同体から排除され、「村八分」という状態に置かれた。ただし、「村八分」の場合でも、残りの「二分」、すなわち結婚式と葬式の場合には共同体全員が協力を行った。現代的に言えば弱者救済のセーフティネット的な考え方が、当時からあったことは注目に値する。しかしこれは実は、意見の合わない人間を完全に排除したり、追い込みすぎたりすると、報復を受けたり、治安が悪化したり、逆に共同体にとっても有害なことであることの認識があったからだ。民主主義の御旗の下に、自分と意見の合わない相手を徹底的に叩きのめす、どこぞの戦争好きな超大国の指導者に聞かせてやりたいような話だ。

管理者型モデルの限界
区分所有法が規定する「管理者型」の管理モデルは、ある意味で上の農業社会での家父長制的リーダーを想定したものである。管理は管理者の責任と権限で行われる。江戸時代の長屋の大家さんや、賃貸共同住宅の大家さんを想定すれば良いだろう。あるいは村の長老と考えてもよいかもしれない。違いは、長屋や賃貸住宅の場合は所有者がそのまま管理者となり、村の場合は最年長の男性が管理者となるが、多数の所有者がいる分譲マンションでは一人のリーダーを規約または集会という民主主義的な方法で選出することになる。これは管理者の代わりに理事・監事を選任する「理事会型」でも考え方の上では差異はない。集会による直接選挙でリーダー(管理者)を定めるか、複数の理事を選出し、その理事の互選によりリーダー(管理者)を定めるか程度の違いしかない。いずれの場合も、必ず総会や理事会で決めなければいけないいくつかの事項を除けば、マンション管理は一人のリーダーの責任と権限で行われることになる。

不幸だったことは、皮肉にも産業社会の発展により、もはやそのような家父長的なリーダーシップが無意味なものになってしまったということである。多くのマンション住人はサラリーマンや自営業であり、生活基盤を会社など、自分の家(マンション)以外に置いている。そこでは地域による共同体という意識は極めて希薄である。マンションの管理者は自分の生活に影響を及ぼす絶対的なパワーは持っていないし、仮に意見が合わなくてマンション内で「村八分」になっても、何ら生活に困ることはない。今や結婚式や葬式に近所の人手を期待することもないので、「村十分」の状態でも生きていける。むしろ煩わしい隣近所の付き合いから開放されることを歓迎する人のほうが多いくらいだ。

理事会型モデルの限界
そのような大きな時代の流れの中で、区分所有法や標準管理規約が掲げる「管理者型」または「理事会型」のマンション管理の理想は、もはや時代遅れのものとなり、現実のマンション管理の実態とは乖離するものとなった。多くのマンションは分譲会社の作成した「理事会型」の原始規約に従い、毎年の総会で理事や監事を選出するが、実際には輪番制や抽選による選出で、まったく形骸化したものであり、意味をなしていない。選ばれた理事や監事にも、責任感は薄く、自分の任期が「大過なく」終わることを願っている。多くのトラブルには目をつぶるか、理事会で話題に取り上げるものの、具体的な解決策も見出せないまま、次期の理事会の申し送り事項になるのがオチである。

あるいは逆に、自分が理事長に選任されたことで、農業社会の家父長的な権限を与えられたという時代錯誤の理解をしてしまう人も出てくる。理事長の専横に悩むマンションがこのパターンである。自分に絶対的権力があると誤解して、他の意見を聞かずに、自分でなんでも決めてしまう。農業社会では家父長的なリーダーに盲従することが自分の生活基盤を保証する唯一の手段であったが、今の時代は違う。理事長の意見に真っ向から反対する人や、あからさまな不満をぶつける人が出てくる。マンション内に理事長派と反理事長派の対立が生まれたり、本来安らぎの場であるべき、自分の家(マンション)での生活の中にストレスを感じる住人もでてくる。これは必ずしも、農業社会に生きてきた人がそのルールを持ち込むケースだけではない。終身雇用・年功序列を前提とした日本の会社や役所は、個人の能力よりは、年長者を重んじる典型的な家父長的な運営の上に成り立ってきた。そのために、会社や役所の中でそれなりの地位にあった人物が理事長となると、自分の成功体験を基にマンション管理に家父長的なリーダーシップを持ち込もうとするケースが多数見受けられる。

多数決原理の限界
一方で、産業社会の中に長く生きてきた人や、現役で産業社会の中に生きている人が理事長になって、産業社会のルールを無理やりマンションの中に持ち込もうとして失敗するケースも数多くある。農業社会では長老の意見が絶対だったが、産業社会では規則と多数決原理が絶対である。管理規約を絶対的なものと考え、何かトラブルがあったときには、規約を厳しくすることで解決できると信じている。規約に従わない、あるいは従えない住人の気持ちを理解することはない。多数決原理を信奉し、合意形成が不十分なままでも強引に事を進める。ここでも少数派の意見に耳を傾ける気持ちはない。これらの多数決原理に基づく強引な行動がどのような結果に結びつくかは、阪神淡路大震災後に建替え決議をしたものの、反対派の住人から裁判を起こされ、10年以上建替え工事に着工できなかったマンションの存在を思い起こせば容易に分かる。

産業社会では「一流大学を卒業して一流会社に就職して出世する」というのが、人生の成功モデルの典型的パターンであり、多くの人がそれを信じて勉強や仕事に励んでいた。このような社会では、ひらすら規則や多数決決議に盲従することで生活基盤の安定が得られた。それに反する者は会社や役所を解雇され、生活基盤を失ったからである。そしてその成功モデルの体現者が理事長に就任したマンションも不幸である。特に役所出身者の場合に、そのような考え方に染まってしまっている人が多い。しかし、マンションの中では、規則や多数決決議は自分の生活基盤を脅かすほどの絶対的権力を持っていない。規則に従わない人が現れたり、総会で意見がまとまらずに過半数の賛成を得られないケースも出てくる。それだけ価値観が多様化しているということも言えるが、そもそも産業社会のルールが適用されないマンションに、規則や多数決原理という産業社会のルールを安易に持ち込んだことに本質的な問題がある。

第三の波
要は、産業社会という家や地域に生活基盤を持たない社会の中で、分譲マンションという区分所有者全員が共同体を形成し、農業社会では一般的だった家父長的なリーダーシップによる自治、あるいは産業社会の規則と多数決原理による自治を求めたことに問題の本質がある。マンション管理適正化法の制定により、野放図だった管理会社に規制が加えられ、マンション管理士が誕生して3年半が経過したが、本質的なマンション問題の解決に至らない理由はそこにある。せっかく熱意に溢れたマンション管理士がたくさん誕生しても、その活躍の場は極めて限定的である。多くのマンションは所有者自治の理想を実現できないまま、管理会社への全部委託を惰性的に続けているのが実態である。今の日本は、長い不況、フリーターやニートの増加、少子高齢化など、これまでの産業社会が副産物として生み出したトラブルに見舞われている。これまで産業社会が求めてきた規格化、画一化、規則厳守、多数決原理の考え方がゆらぎ始めている。

今後日本は団塊の世代が定年を迎え始める2006年問題や、人口の減少が始まる2007年問題、世帯数の減少が始まる2015年問題など、今まで経験したことの無い世の中を迎える。ひとつの価値観を尊重して、それに盲従していれば生活基盤の安定を得られた時代は終わったのである。まさに、価値観が多様化し、情報の洪水の中で多くの人々が行き先を見失う「第三の波」の世界が、マンション管理の世界にも到来したと言える。

求められるリーダー像
では、これからのマンション管理はどこに向かうべきなのか?ひとつのヒントは、最近のインターネットの発達による、新たなコミュニティの発生にあると考える。地域によるコミュニティでもなく、会社や職能によるコミュニティでもない。「情報」によって繋がれた新たなコミュニティの発生である。この新たなコミュニティでは旧来型のコミュニティが持っていたのとはまったく異なるリーダーシップと管理体系が求められいる。

すなわち、家父長的なリーダーは存在せず、絶対的な規則もなく、多数決原理ですべてが決まるわけでもない。ネットにより気軽に情報交換を行い、情報を共有することで精神的なつながりを持ったコミュニティ形態である。コミュニティの構成員は多様な価値観を持ち、それぞれ別のコミュニティにも所属している。会社勤めの人には会社というコミュニティがあり、ボランティア活動をしている人にはボランティア団体のコミュニティがある。趣味の同好会のコミュニティもあれば、インターネットの掲示板やメーリングリストも立派なコミュニティである。当然、ひとつのコミュニティへの帰属意識は相対的に希薄なものとなる。マンションの管理組合は、数多くのコミュニティの中のひとつに過ぎないのである。夏祭りやバーベキューなどのイベントでコミュニティの形成を図るマンション管理組合もあるが、マンション管理という本質を見失った状態では、それは表面的なつながりにしか過ぎなくなる危険性もある。

ここでのリーダーは、「管理者」というよりは、むしろ「世話役」という位置付けになる。情報という形のないものを基にしたコミュニティを崩壊させることは実に簡単だ。情報の流れを止めるだけでよいからだ。それは、血管が詰まって血流が止まり、脳梗塞を起こす状況と似ている。したがってそこでのリーダーはコミュニティの中で情報の流れが止まることのないように、常に気を配る必要が生じてくる。この新しいコミュニティでは情報収集と広報活動が重要な位置を占める。リーダーは自らの考えをコミュニティに伝えて、そのコミュニティの進むべき方向をしっかりと指し示すことができないといけない。しかし、ひとつの考えだけに囚われてもいけない。常にコミュニティの中の意見に耳を傾ける必要がある。自分の考えだけを押し付けるリーダーは失格である。コミュニティ全員の理解が得られない考えは構成員に不満が生じて抵抗が増す。ちょうど末端の血管が細っているような状況だ。無理やり血液を流そうとすると血圧が高くなり、いつ脳内出血が起きてもおかしくない危険な状態になる。

そのためには掲示、回覧、広報紙の発行などの広報活動に力を入れる一方で、意見箱の設置やアンケート調査など、構成員の意見を吸い上げる努力も必要になる。そこでは色々な意見が上がってくるが、少数派の意見も重視しなければならない。意見が対立した場合は、多様な価値観・立場を尊重して、それぞれに正当性を与える決着が望まれる。これには方程式のようなものはない。リーダーはその場その場で判断して瞬時に問題を解決していく、サッカー選手のような能力が求められる。自分の前に転がってきたボールをどの方向に蹴るべきか、瞬時に判断して行動に移さなければいけない。いちいちタイムを取って監督やコーチに助言を求めることは出来ないのだ。

情報によるコミュニティ形成
すでに広報活動の重要性に気づいたマンション管理組合も少なくない。毎月広報紙を発行したり、管理組合でホームページを持つマンションも現れ始めた。しかしこれらの多くが一部の意識の高い居住者だけに頼った運営になっている。これはマンション管理にとって本来あるべき姿ではない。個人の努力に期待したマンション管理は結局長く続かないのだ。一方で、管理会社のサービスの一部として、コミュニティ紙を発行したり、ホームページの作成サービスを行うところも現れている。しかし、管理会社のコミュニティ紙はマンション管理に関する一般的な話題や他のマンションの事例紹介ばかりで、多くは目も通されずにゴミ箱行きになっている。なぜなら、住人が本当に欲しい情報は、自分の住んでいるマンションに関する記事だからだ。同様の理由で管理会社がホームページを作成しても、あまり活用されているという話は聞かない。そのマンションの実情に疎い管理会社の担当者は、ホームページ管理者としては適任ではないからだ。血の通った広報紙、ホームページにするには、「世話役」とも言うべきリーダーが気軽に自分の考えやマンションの実情を発信できる環境がないといけない。残念ながら、そのような環境は整っていないというのが実情である。

しかし、インターネットの普及に見られるような情報技術の発達により、そのようにリーダーが気軽に情報を発信したり、コミュニティの構成員同士が気軽に情報交換をしたり、意見交換をしたりすることが容易にできるようになった。例えばリーダーや管理員がブログで管理の状況を書き込んでもいいだろう。住人全員の参加によるメーリングリストを設置して、住人全員が気軽に情報交換や意見交換できる場を設けてもいいだろう。インターネットの利用ができない一部の住人に配慮する必要は残るものの、このような情報技術の活用により、「情報」によるコミュニティが簡単に構築できる時代になったことは歓迎すべきことである。

交通機関が未発達だった農業社会では、情報はもっぱら長老が独占していた。隣の村との交流も限られたものであり、同じ地域の人間はごくわずかの情報を全員で共有していた。その後、産業社会を迎え、交通機関が発達すると、地域のコミュニティを越えて、職業や趣味によるコミュニティが形成されるようになった。しかしコミュニティに参加するということは、自分がその場所に移動することを意味していた。そのため、家にいる時間が少なくなり、自分の家や地域に関する関心も薄れていった。

しかし、これからは情報社会を迎えて、情報によるコミュニティ形成の時代になった。わざわざ満員の通勤電車に乗って長時間通勤に耐えなくても、在宅勤務が可能になった。今や、家にいながらにして仕事もできる時代である。2006年以降、定年退職を迎える団塊の世代も、家にいる時間が今よりは長くなることは間違いない。会社勤めの頃と違って時間的にも余裕ができるため、マンション管理のような地域コミュニティへの参加意識も高まってくることになる。年功序列・終身雇用制の崩壊、派遣社員や契約社員の増加により、会社への帰属意識も低い人間が増え、自分の生活に関心が高まってくる。そのような人々を結びつける手段として「情報」によるコミュニティが重要になる。そのコミュニティは区分所有法が規定するような区分所有者の団体ではない。マンションの居住者全員が構成員となる。区分所有法が定める区分所有者による多数決原理は必要条件ではあるが、十分条件ではない。円滑なマンション管理を目指し、合意形成を図るには居住者全員がコミュニティの構成員となる必要がある。

マンション管理士に求められるもの
2007年からは日本の人口も減少を始める。2015年からは世帯数も減少を始める。これはマンションなどの住宅ストックが余り始めるということを意味する。一方で、東京湾岸の超高層マンションの建設ラッシュに見られるように、都心回帰の傾向も弱まるきざしがない。郵政民営化により郵貯と簡保が保有する膨大な国債が市場で売りに出されることになれば、国債の価格の低下と金利の上昇につながる。住宅の債権化が進み、都心部で良質な賃貸物件が数多く提供されるようになれば、無理に住宅ローンを組んで金利の高い借金を抱えてまで持ち家にこだわる人は少なくなる。日本経済の国際化と構造改革により、一握りの高所得層とその他多数の低所得者に2極化する。少子化の一方で、介護や単純労働者への需要は増え、外国人労働者が流入してくる。このような中で、近い将来、郊外の既存マンションは売りたくても買い手のいない状況になる。間違いなく中古マンション価格は暴落する。買い手どころか、借り手すらつかず、賃貸料も暴落する。郊外の分譲マンション住人の大半は高齢者となり、低所得者と外国人労働者の賃貸居住者だけが住むところになる。

そのような新しいマンション管理の世界で、新しいリーダーに求められる資質は、価値観が多様で、帰属意識の薄い構成員をまとめていく力量である。価値観の多様化した世の中では、答は決してひとつではない。そのような新しい社会の中で、マンション管理士の果たすべき役割を、マンション管理適正化法が定める「管理組合の相談に応じ、助言・指導を行う」という枠にはめて考えている限り、マンション管理士に未来はないだろう。マンション管理士が何をすべきなのか、何が求められているのか、ひとりひとりがマンション管理の現場で感じてほしい。繰り返して言う。価値観の多様化した世の中では、答は決してひとつではないのだ。